平成24年 7・17「平和集会」 学校長の話
- 公開日
- 2012/07/17
- 更新日
- 2012/07/17
校長室だより
みなさん、おはようございます。
毎年8月は、日本の歴史の上で特に心に刻まなければならない、とても大切な月です。というのは、8月6日に広島、今日、9日に長崎へ原子爆弾が落とされ、そして、15日は、15年間も続いた第二次世界戦争が終わった「終戦記念日」だからです。
今から67年前の1945年、昭和20年8月6日午前8時15分、ヒロシマに、そして9日午前11時2分、ナガサキに、アメリカの爆撃機が投下した原子爆弾で、広島と長崎の街は、一瞬のうちに壊れました。ものすごい熱と台風のような風と放射線、そして、燃え続ける炎……。
数十万人もの尊い命が奪われ、かろうじて死を免れた人びとの心と体にも、深い傷が刻みこまれました。
広島・長崎への2度の原爆。そして、昨年3月11日の東日本大震災後の原子力発電所の事故による放射能汚染で日本の美しい空と海と大地が脅かされています。世界でただ一つの被爆国、日本なのに・・・。
戦争の恐ろしさ、平和の大切さを学び伝えるのは、わたしたちの大きな使命です。
校長先生は、教育という仕事に就いてから、一層強く、そう考えるようになりました。
実は、校長先生のお父さんは、6年前に亡くなりました。生きている時は厳しくもやさしいお父さんでしたが、子どもの頃、必ず怒られることがありました。それは、おもちゃの刀でチャンバラごっこをしたり、おもちゃの鉄砲で戦争ごっこをしたりしたときです。子どもの時は、その理由がわかりませんでしたが、大きくなるにつれ、なぜ怒られるのか分かるようになりました。
校長先生のお父さんは、裸になると左の腰に大きなやけどの後がありました。ある時、風呂上がりの体を見て、そのやけどのことを聞いたことがありました。
お父さんが言うには、
「20歳の時に、国の命令で戦争に行かされた。行った場所は今の中国。来る日も来る日も、暑い暑い原っぱで闘いが続いた。ある日、一瞬、目の前が真っ赤になったかと思うと、体に電気のようなものが走って、その場で気を失った。何時間かたった。そして、気がつくとテントの中に寝かされていた。敵の鉄砲の弾が自分の腰にあたっていた。幸い、大けがをしたものの何とか命は助かった。次の年に戦争が終わって、ようやく日本に帰れた。でも、たくさんの人々が中国の地で死んでいった。日本人も中国人も。その中に大切な友だちもいた。戦争は、とてもつらく悲しいことや。」
というのです。
お父さんの腰のやけどの意味を知り、そして、なぜ、お父さんが、戦争ごっこをあんなに怒ったのかもわかりました。
実際、貝塚市民の中で兵隊さんとして戦争に行き亡くなった人は、1128人にも及んだと貝塚市の歴史の本に書かれています。東小学校の全部の子どもの数が約670人ですから、東小学校の皆さんの約2倍の人たちが亡くなったのです。
戦争は兵隊として闘った男の人に大きな犠牲を払わせましたが、日本にいたお母さんや子どもたちにも悲しい出来事がたくさんありました。
実は、この貝塚市にも「空襲」がありました。空からアメリカの飛行機が飛んできて爆弾を落としたのです。それは、昭和20年7月9日の夜から10日の朝にかけてのことでした。和歌山方面から飛んできたB29という飛行機が、油を詰めた焼夷弾という爆弾を貝塚市内の街に落とし、東小学校の近くも燃えました。貝塚市内では、468軒の家が燃え、16人の方が亡くなりました。中でも東地区は被害が大きく、住宅の3分の1が焼かれました。その時、11歳だったある方は、当時の様子を次のように語っています。
「突然、シャー、ドン。という音がしたので、家の外に出ました。空を見るとパッと光って、パラパラ、パラパラと火の粉が落ちてきました。その時、急におじいちゃんのことが気になり家の中に飛び込みました。おじいちゃんは病気で寝たきりで、身動きすらできなかったのです。奥の間を見ると、すでに火がついて燃え上がっていました。今でもその時の光景が目に焼きついて忘れられません。」
このように、戦争は、国内に住んでいた人々にもたくさんの犠牲をもたらしたのです。
みなさんは、今日、それぞれ平和について学習します。戦争の恐ろしさ、平和の大切さなどについて、今一度、考え、夏休みにおうちの人とも話し合ってくださいね。
これで、校長先生の話を終わります。