7月16日(火)「平和集会」 学校長の話
- 公開日
- 2013/07/16
- 更新日
- 2013/07/16
校長室だより
みなさん、おはようございます。
毎年8月は、日本の歴史の上で特に心に刻まなければならない、とても大切な月です。というのは、68年前の1945年、8月6日にヒロシマ、9日にナガサキへ原子爆弾が落とされ、8月15日は、15年間も続いた第二次世界戦争が終わった「終戦記念日」だからです。
アメリカの爆撃機が落とした原子爆弾によって、広島と長崎の街は、一瞬のうちに壊れました。ものすごい熱と台風のような風と放射線、そして、燃え続ける炎の海となった街・・・。
数十万人もの尊い命が奪われ、かろうじて死を免れた人びとの心と体に、深い悲しみが刻みこまれました。今日は、その中のお一人である飯田清和さんにお越しいただいています。飯田さんは、小学3年生の時にヒロシマの小学校で原爆に遭われました。その時のことなどを後ほどお話し下さいます。
ところで、広島・長崎への2度にわたる原爆を落とされた日本ですが、三度目の今また、放射能で苦しんでいます。そうです。2年前の3月11日に起きた東日本大震災で、福島の原子力発電所が壊れて放射能がもれ続けているのです。日本の美しい空と海と大地が放射能で脅かされています。ですから、平和の問題は昔のことではありません。
戦争の恐ろしさ、平和の大切さを学び伝えるのは、わたしたちの大きな使命です。
校長先生は、教育という仕事に就いてから、一層強く、そう考えるようになりました。
実は、校長先生のお父さんは、7年前に亡くなりました。生きている時は厳しくもやさしいお父さんでしたが、子どもの頃、必ず怒られることがありました。それは、おもちゃの刀でチャンバラごっこをしたり、おもちゃの鉄砲で戦争ごっこをしたりしたときのことです。子どもの時は、その理由がわかりませんでしたが、大きくなるにつれ、なぜ怒られるのか分かるようになりました。
校長先生のお父さんは、裸になると左の腰に大きなやけどの後がありました。ある時、風呂上がりの体を見て、そのやけどのことを聞いたことがありました。
お父さんが言うには、
「20歳の時に、国の命令で戦争に行かされた。行った場所は今の中国。来る日も来る日も、暑い暑い原っぱで闘いが続いた。ある日、一瞬、目の前が真っ赤になったかと思うと、体に電気のようなものが走って、その場で気を失った。何時間かたった。そして、気がつくとテントの中に寝かされていた。敵の鉄砲の弾が自分の腰にあたっていた。幸い、大けがをしたものの何とか命は助かった。次の年に戦争が終わって、ようやく日本に帰れた。でも、たくさんの人々が中国で死んでいった。日本人も中国人も。その中に大切な友だちもいた。戦争は、とてもつらく悲しいことや。」というのです。
お父さんの腰のやけどの意味を知り、そして、なぜ、お父さんが、戦争ごっこをあんなに怒ったのかもわかりました。
実際、貝塚市民の中で兵隊さんとして戦争に行き亡くなった人は、1128人もいます。東小学校の全部の子どもの数が約670人ですから、ここにいる東小学校の皆さんの数の約2倍の人たちが亡くなったのです。
戦争は兵隊として闘った男の人に大きな犠牲を払わせましたが、日本にいたお母さんや子どもたちにも悲しい出来事がたくさんありました。
実は、この貝塚市にも「空襲」がありました。空からアメリカの飛行機が飛んできて爆弾を落としたのです。それは、昭和20年7月9日の夜から10日の朝にかけてのことでした。ナガサキに原爆が落とされるちょうど1か月前のことです。和歌山方面から飛んできたB29という飛行機が、油を詰めた焼夷弾という爆弾を貝塚市内の街に落とし、東小学校の近くも燃えました。貝塚市内では、468軒の家が燃え、16人の方が亡くなりました。中でも東地区の被害は大きく、住宅の3分の1が焼かれました。
このように、戦争は、国内に住んでいた人々にもたくさんの犠牲をもたらしたのです。
みなさん、改めて、平和について考えてください。それは、みなさんの「身近な平和」についてです。例えば、「学級の平和」はどうですか。毎日、友だちと平和に暮らしていますか。マザーテレサという立派な人がこう言っています。「平和を壊すものは、人を無視することから始まります」と。友だちと仲が悪くなると無視したりします。無視しても気持ちがおさまらないと「陰口」を言ったり、落書きやメールで「悪口」を描いたりします。それでも気がすまないと口げんかが始まります。そして、最後は手が出て殴るなどの暴力になり、体と心を傷つけます。これが国と国なら「戦争」になるのです。
みなさんは、今日、それぞれ平和について学習します。戦争の恐ろしさ、平和の大切さなどについて、今一度、身近なことから考え、話し合ってほしいと思います。